自宅とグループホーム

 今私は作業所の世話でグループホームで一人暮らしをしている。それでゴールデンウィークや土曜日、日曜日は自宅に帰っている。それで今日は自宅からグループホームに帰る日だった。朝早く起きて朝ご飯を食べて自宅を出た。それで今日はスマホおサイフケータイがおかしいので途中、吉祥寺へバスで行った。それで吉祥寺へ行くのは久しぶりだった。しかしスマホは駅員に聞いて直してもらおうと思ったがパスワードがわからないので結局直せなかった。それでバスでまた花小金井に帰って来た。それでドコモとソフトバンクに行ったが同じように治せなかった。どうもパスワードがわからないのでそれがうまくいかないようだ。それで自分も困ってしまってグループホームに帰って来た。誰かスマホに詳しい人はいないかと思ったが今日は日曜日だ。誰もグループホームにはいない。仕方がないので明日月曜日なので仕事に行ったときに誰か詳しい人がいれば聞きたいと思う。それにグループホームもだいぶ慣れてきた。ただ母親のことが気になる。家は母一人子一人である。だからどちらも一人暮らしになっている。それに母は高齢だ。だからそれが気になるのだ。私に障害があるのでそれで作業所に行き今グループホームに入っているのである。そういう事情があるのだ。自分に障害さえなければ親子二人で安心して生活ができるのにと思う。それがとても残念だ。

母のリハビリ

 母は高齢だが体の回復にはただただ驚いている。今日からリハビリをやる。心配だったがシャワーをしてからリハビリをしていた。その間私は寝ていたのだろう。疲れていて寝ていた。目が覚めたら母はいなくてどこへ行ったか分からなかったので、ナースステーションで聞いたら、なんとリハビリをしていると聞いた。あの体でできるのか心配だった。リハビリ室に行ったらすごく広くて驚いた。その中で母を見つけた。母は体を上下に動かしていた。その次は広い部屋を二回歩いた。足が心配だが見事に歩きつくした。支持をする人が終わっていろいろ聞いていたが疲れた顔一つ見せなかった。そしてリハビリが終わると車いすに乗って私が車いすを押して部屋に行った。そしたらお昼前で母は何かをしていた。そして車いすに乗ってテーブルのそばに座った。そしたらちょうどお昼ご飯を持ってきた。母は自分でほとんど食べてくれた。自分も嬉しかった。

母の管抜き

 母は今日脊髄の管を抜く。私はマイナンバーのカードをもらうために朝市で市役所に行った。それからバスで武蔵境へ行った。日赤に着いたときはもう十時を回っていた。急いで病室に行ってみるともう管はとっていた。無事な姿を見て私はほっとした。ナースコールして看護師にも見てもらった。母は忍耐強いので少々なことではやららない。私はナースコールをもっとやってほしいと思った。

眠かった。

 今日は日曜日で礼拝を受ける日であった。しかし朝土曜日と勘違いしていた。だから朝眠い目をこすりながら起きてまず仏様の水を変えてやった。それから一階の花と二階の花に水を全部やった。自分は日赤に行かなければいけないから急いで服を着替えていた。それで着替え終わったら家を出た。今日は眠くて眠くてたまらなかった。疲れているのだろうと私は思った。そしてバスで十時前に家を出た。まずドトールへ行ったが気休めのコーヒーに過ぎなかった。それから武蔵境まで田無からバスで行ったが眠かったのだろう。うとうとしていて武蔵境に着いたら何故か目が覚めて列の最後尾に並んだ。とにかく眠かった。日赤にムーバスで行きついて面会の用紙に名前を書いて部屋に行った。部屋に行ったら眠っていて、それを見守っていた。いつの間にか眠りは冷めていた。着いた時間は午後一時を回っていた。ちょうど昼食前だった。そうしているうち昼食を持ってきた。ゆきちゃんみたいに上手にできなかった。それでご飯を母の体の横に置いてゆっくり食べた。何とか食べてお茶を飲んだ。起きれないので自分がいないと飲料は困る。のどがカラカラだと聞いてお茶やスポーツドリンクなどを飲ませた。看護師がいろいろ診察に来るから何も言えないのだろう。家の母は我慢強いので、ナースコールをしない。自分一人で寝返ったり夜などはしている。だから私は看護師にその辺の事情を話しておいた。そして母も目を覚ましたのだろう。ずっと昔のことを私に話してくれていた。話し込み終わったときは五時を回っていた。今日は五時に帰ろうと思っていたが、話し込みすぎた。母も話疲れたであろう。アクエリアスを飲ましてそして六時前に私は帰って行った。

母の手術

 母の手術は今日の深夜に行われた。私はそれで午前十時半に日赤に着いた。病室に行ったらびっくりした。酸素マスクや点滴、輸血などいろんな機械があったからだ。私は想像した。こんなにすごい手術を母はしたんだ。それでベッドの上で横になって寝ている。何とも言えない気持ちが走った。そして手術用の着物から普通のパジャマに着替えて少し経った。そしたら母の様態といおうか顔色が変わった。いたい。いたい。と叫ぶ顔に変わっていた。ナースコールして私は看護師に痛み止めを打ってもらった。そしたらしばらくたって落ち着いたのか眠りに入った。でも熟睡ではない。うとうとしているだけだ。その痛みはただ事ではないぐらいの痛みだったと思う。脊髄を手術しているので、手術したてだから背中に管が入っている。だからどうしてもやや横になってしまうのだ。自分が行ったときはまっすぐ寝ているように見えたが、すぐ斜めになる。痛いのだろうとすぐ悟った。午後五時までいたが立ったままだった。自分も一安心はしたがでも母の声を聴くとものすごく小さな声で話して、心配ないと言った。その瞬間涙が目にたまった。こんな経験は初めてである。気持ちをしっかり持たねばと思ってもどうしても涙が......。そうした中家路に着いた。家に帰ったら少し落ち着いたのだろう。気持ちも収まった。明日は午前中訪問看護だ。だから午後日赤に行こうと思う。いや毎日行こうと思っている。母が少しでも安心していられるように。今自分にできることはその程度だ。だから今自分に何ができるのか。母の為に何ができるのかを考えなければいけない。作業所もあるしほかにやらねばならないこともたくさんある。自分が障害者だからとか言ってはいられない。母を元気にすることが今私にできることであり、そのためにも毎日面会に行かなければならない。母にはまだまだリハビリや退院までの道のりが長く残っている。私にはそれを見届ける義務がある。それが親子だ。それに最後にどうしても通らなくてはいけない道なのだ。生死をさまよった母の為にも。私は生きなければならないのだ。

手術

 今日は朝から忙しかった。手術の予定が入っていたからだ。しかし今日は一日中手術で混んでいた。朝から夜中までだ。それで手術は明日になると看護師に言われた。それを聞いて私は四時過ぎに帰って来た。七時近くになっていた。明日は手術があると思うから後継人としていかなけばならない。明日は祝日だが病院にはない。だから明日行って母の後見人としていかなければならない。何とか成功したいと祈っている。